プライドパレードの始まり
プライドパレードとは?
「プライド(Pride)」という単語は、英語の一般名詞で、「誇り・矜持(きょうじ)」といった意味ですが、それだけではなく、「セクシュアル・マイノリティ(性的少数者)のパレード(マーチ)」のことを表す言葉として、広く国際的に認知されています(パレード前後のイベントを含めた総称として使われることもあります)。例えば、『パレードへようこそ』という2014年製作のイギリス映画がありますが、その原題は「Pride」で、日本では「Pride」だと意味が伝わらないと考えた配給会社が、「パレードへようこそ」という邦題を付けました。
この「プライド」と称されるセクシュアル・マイノリティのパレードイベントは、毎年の恒例行事として、今では世界各地で開催されています。中には、ニューヨークやサンパウロといった、100万~300万人の動員を記録する巨大な規模のものもあります。では、この「プライド」が、いつどのようにして始まったのか。プライドパレードの起源とその背景について見ていきましょう。

写真:『Parada do Orgulho LGBT de São Paulo』公式ウェブサイト
きっかけは「ストーンウォールの反乱」
1969年6月28日、午前1時20分頃(27日金曜深夜)、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ地区のクリストファー・ストリートに面した「ストーンウォール・イン(Stonewall Inn)」というゲイバーに、警察の「手入れ」(抜き打ち捜査)が入りました(当時の「ゲイ(Gay)」は、今で言う「LGBTQ+」やセクシュアルマイノリティといった意味の広い概念でした)。当時、ニューヨークのゲイバーはほとんどマフィアが経営しており、頻繁に警察の手入れがあり、界隈では有名だったストーンウォール・インにも、酒類無許可販売の証拠を押さえるため、しばしばニューヨーク市警が抜き打ち捜査をしていました。
午前1時20分頃、この日もいつものように警察が捜査に入り、店の照明を明るくし、客を並べ、一人一人、身分証明書のチェックをします。このとき、お客さんは200人くらいいたのですが、この日に限って、常連客たちが警察への協力を拒否したのです。警察はその場にいた全員を警察署に連行することにし、外へ連れ出し、警察の車両に収容していきます。この騒ぎを聞きつけ、辺りに人が群がり始めたところ、警官たちが、手錠をかけられた一人のレズビアンを強引に車両に押し込もうとして揉み合いになり、乱闘になってしまいます。すると取り囲んでいた群衆たちの怒りにも火がつき、ビール瓶やレンガなどが投げつけられ、警官たちはストーンウォール・インの中に逃げ込み、入り口のドアにバリケードを築きます。すると、今度はお店に向かって、ビンや石、レンガなどが投げ入れられ、果ては根こそぎ引き抜かれたパーキングメーターをストーンウォールのドアにぶつけて叩き壊そうとします。しばらくして警察の援軍が到着し、店内の警官たちは解放されましたが、その後も午前4時頃まで暴動は続きました。
この暴動のニュースは瞬く間にグリニッジ・ヴィレッジ中に広まり、翌日の夜にも、ストーンウォール・インの周囲には大勢の人が集まってきました。その数、約2,000人。「ゲイ・パワー」「同性愛に平等を!」と抗議の声を上げる人たちが通りを埋め尽くし、クリストファー・ストリートから溢れて交通を妨げるほどでした。100人以上の警官が駆けつけ、朝4時頃まで攻防戦が続きました。その後の数日間、抗議は沈静化していましたが、水曜になって再び、1,000人ほどによる激しい抗議活動が行われました。6日間にわたる一連の暴動は、「ストーンウォールの反乱/ストーンウォール事件」として、その後のゲイ解放運動、セクシュアル・マイノリティの人権運動へとつながっていく転換点として、その名を歴史に残すことになります。

ストーンウォール1周年のデモ行進
「ストーンウォール事件」を経験したことで、ニューヨークのLGBTQ+当事者たちの意識は変化しました。「ゲイ解放戦線(Gay Liberation Front:GLF)」「ゲイ活動家同盟(Gay Activist Alliance:GAA)」といった団体が設立され、「ゲイ解放運動」が始まります。また、ストーンウォール事件に関する情報がアメリカ全土の活動家や活動団体に伝わっていき、運動が活発化していきます。
そして、1970年6月28日(日)。ストーンウォールの反乱からちょうど1年となるこの日。ニューヨークでは「クリストファー・ストリート解放の日」としてデモ行進が行われました。ルートは、グリニッジ・ヴィレッジのシェリダン・スクエアと6番街の間のワシントン・プレイスから始まり、6番街を北上し、セントラルパークのシープ・メドウまででした。出発当初はさほど参加者は多くありませんでしたが、隊列が進んでいくうちに、「Out of the closets and into the street!(クローゼットから出て、街へ出よう!)」と呼びかけるデモ行進者たちの声に促されて、沿道からたくさんの人が列に加わり、ゴール地点のセントラルパークに到着する頃には約5,000人もの人たちが連なって歩いていました。同じ週末には、シカゴ、ロサンジェルス、サンフランシスコなどでもストーンウォール1周年を記念したデモ行進が実施されました。
「ストーンウォール事件」の1周年を記念して行われたデモ行進は「プライド」と呼ばれ、その後も毎年恒例化し、LGBTQ+の権利の回復を求め、また、その存在を祝福するパレード(マーチ)として、世界各地で開催されるようになりました。そして、ストーンウォール事件のあった6月は、「プライド月間」として国際的に認知されるようになりました。

「ストーンウォールの反乱」に至った時代状況
「ストーンウォール事件」が起こり、「ゲイ解放運動」が活発になる前のアメリカにおいては、「同性愛」は違法であり、変態であり、病気だとされていました。
その頃はまだ、「ソドミー法」という同性愛行為や生殖以外の性行為を禁止する法律が存在していました※1。
また、当時の精神医学や性科学では、「同性愛」は先天的な異常であり、性的倒錯であり、病気であるとされ、強制的に性的指向や性自認を「矯正」しようとする治療(コンバージョン・セラピー)も行われていました※2。
1950年代は「冷戦の時代」で、ジョセフ・マッカーシー上院議員が主導する「赤狩り」によって、共産主義者とともに同性愛者も国家安全保障上の脅威とみなされ、公職から追放されるなどの弾圧が行われました(マッカーシズム)。
その一方で、1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリーで起こった、黒人女性ローザ・パークス(Rosa Parks)の逮捕事件に端を発する「モンゴメリー・バス・ボイコット」をきっかけに、黒人による公民権運動が勃興します。マーティン・ルーサー・キング牧師の「I Have a Dream」の演説で知られる、1963年8月28日の「ワシントン大行進」には20万以上が参加し、1964年の「公民権法」制定につながりました。
あるいは、1960年代から70年代にかけては、ベティ・フリーダン(Betty Friedan)が1963年に『新しい女性の創造』を出版し、たくさんの女性たちに読まれたことを契機に、「個人的なことは政治的である(The Personal Is Political)」というスローガンのもと、女性解放運動(第2波フェミニズム)が盛り上がりを見せました。
ストーンウォール事件が発生する以前に、アメリカにおいて黒人解放運動や女性解放運動などの公民権運動が先行して起こっていたことは、その後の「ゲイ(LGBTQ+)解放運動」の進展に大きな影響を与えました。
- ※1 アメリカ合衆国のソドミー法は、1961年にイリノイ州で最初に廃止され、その後、1986年までに半数の州で廃止に。2003年の「ローレンス対テキサス州」裁判の連邦最高裁判決でソドミー法が違憲とされ、その他13の州法でもすべて廃止になった。
- ※2 1990年5月17日、WHO(世界保健機関)は国際疾病分類(ICD)から「同性愛」を削除し、「同性愛はいかなる意味においても治療の対象とはならない」と宣言した。このことにちなんで、5月17日は「国際反ホモフォビア・トランスフォビア・バイフォビアの日」として世界的に認定されている。
- 新ヶ江章友『クィア・アクティビズム』(花伝社)
- ジェローム・ポーレン著、北丸雄二訳『LGBTヒストリーブック』(サウザンブックス社)
- 河口和也「性的マイノリティの抵抗の歴史とその拡がりの可能性――ニューヨーク、ストーンウォール・インの暴動の事例から――」
日本のプライドパレード
1969年の「ストーンウォール事件」から25周年にあたる1994年8月28日、日本で初めてとなる「プライドパレード」が東京で開催されました。ここでは、日本でパレードが行われるに至った経緯と、それ以降の日本におけるプライドパレードの歩みについて簡単に振り返ります。
プライドパレード開催への助走
日本初のプライドパレード開催の年からさかのぼること10年。1984年2月、スウェーデンからビル・シラー(Bill Schiller)※1というアメリカ人が日本にやって来ました。ビルさんは当時、ゲイの国際組織「IGA(International Gay Association)※2」の情報局長で、ワーキングホリデーのためにオーストラリアへ向かう途中に日本に立ち寄り、東京に1週間滞在しました。滞在中に、ゲイ雑誌『アドン』の編集長、南定四郎※3さんとコンタクトを取り、南さんの自宅に宿泊。ビルさんの後押しもあり、南さんは2月15日、「IGA日本サポートグループ(IGA日本)」(後に「ILGA日本」に改称)を設立しました。
その後、南さんは「ILGA日本」の活動に精力的に取り組み、「IGAクラブ」や「hands on hands」といったコミュニティスペースをつくり、HIV/エイズの予防啓発やエイズ予防法案反対運動を推し進め、レズビアン&ゲイ映画祭(現「レインボー・リール東京」)の立ち上げに関わり……などなど、目覚ましい実績を積み上げていきました。そして、1994年8月、日本で初めてとなるプライドパレードの開催にこぎつけたのでした。
直接のきっかけは、前年の11月に「hands on hands」で行われた、あるトークイベントでした。その場で南さんが、翌年のパレード開催を提案したところ、多数の賛同が得られ、パレード実施に向けて動き出します。後日、実行委員会が立ち上げられ、南さんは実行委員長として、夏に向けてパレードの準備を牽引していきました。実はすでにILGA日本では、1990年7月の「第4回ILGA日本全国大会」で採択された「政治活動方針」の中で、5年後のパレード開催をプロジェクトの一つとして掲げていました。その後、南さんは、ILGAの国際会議に参加し、海外のプライドパレードを視察するなどして情報を集め、1992年、93年には東京で「エイズ・パレード」を実施し、また、1991年から始まったメディアでの「ゲイ・ブーム」もあり、南さんは手応えを感じ、94年のパレード開催を決断したようです。
日本の「プライドパレード」の始まり
1994年8月28日、記念すべき日本初のプライドパレード『第1回レズビアン・ゲイ・パレード in 東京』が開催されました。天気は快晴。とても清々しい夏の青空が広がりました。10時のパレードスタートに合わせて、集合場所の新宿中央公園「水の広場」に集まった参加者は約500名。取材に来たメディアは30数社。日本初ということで、かなり注目を集めました。
パレードコースは、新宿中央公園から新宿駅南口を通過し、明治通りを歩いて、渋谷駅前まで行き、宮益坂下から宮下公園までの約4.5km。約2時間30分かけて行進したこのコースは、最初にして東京のプライドパレード史上最長の距離となりました。出発のときは約500人だった参加者は、宮下公園に到着する頃には約2倍の1,100人ほどに膨れ上がっていました。


翌95年8月27日に行われた第2回のパレードは、明治公園から宮下公園までの約3kmの道のりで、前年の約2倍の2,156人(主催者発表)が歩きました。初回は状況を静観していた人や、不安を払拭できなかった人たちも、第1回の成功を受け、今回こそはと多くの人が集まりました。

96年の第3回は8月25日に開催され、初めて代々木公園が会場となり、出発地に戻ってくる回帰式のルートになりました(以降、東京のプライドパレードは代々木公園が会場)。この年は、運営組織内部での齟齬(そご)や軋轢(あつれき)により、さまざまな問題が生じてしまい、パレード帰着後の「プライド集会」では、「第3回レズビアン・ゲイ・パレード宣言(案)」の採択をめぐって異議が出て紛糾し、混乱のうちに自然解散になってしまいました。96年の混乱が未解決のまま、運営団体は解散してしまい、97年から99年は、有志による小規模なパレードが細々と続けられました。

一方、97年10月10日の「体育の日」には、「ダイクマーチ」が開催されました。主催は「日本ダイク協会」で、ダイク、レズビアン、女を愛する女たちに呼びかけ、宮下公園から新宿公園(新宿二丁目)までを、「私たちはここにいる!」と訴えて行進。213人が参加しました。
札幌、そして全国へ
1994年、95年の東京でのパレードに参加した「ILGA日本・札幌ミーティング※4の若手メンバーが、95年の秋頃、「パレードは、地元で、札幌で、やらないと、意味ないしょ!」と発言したことがきっかけで、実行委員会が組織され、1996年6月30日、地方都市で初めてとなるプライドパレード『第1回レズ・ビ・ゲイ・プライドマーチ札幌』が開催されました。当日は朝から雨が降っていましたが、スタート直前に雨が上がり、285人(主催者発表)が中島公園から北6条エルムの里公園までを行進しました。
「ILGA日本・札幌ミーティング」は1996年11月に「北海道セクシャル・マイノリティ協会 HSA札幌ミーティング」に改称しましたが、翌1997年以降も主催団体として、『セクシャルマイノリティ・プライドマーチ札幌』『レインボーマーチ札幌』などと名称を変えながらも毎年パレードを開催し、東京でパレードが行われない年も、日本のプライドパレードの灯を絶やすことなく守り続けました。

1996年以降、札幌でパレードが毎年継続して開催されるなか、2000年に東京のパレードが復活します。8月27日に『東京レズビアン&ゲイパレード2000』(TLGP2000)が開催され、約2,500人(パレード2,000人)が参加しました。そして、その日の夜には新宿二丁目で『東京レインボー祭り』が初開催されました。その後、パレードが開催できない年もありましたが、2005年からは「TOKYO Pride」という団体が設立され、その団体が継続して主催するかたちでパレードが運営されました。そして2007年からはパレードの名称も、より包括的な「東京プライドパレード」に変更されました。
2000年代に入り、東京と札幌の2都市だけだったパレードに、大阪が加わります。2006年10月22日、『第1回関西レインボーパレード2006』が開催され、約900人が中之島公園から御堂筋を通って元町中公園まで行進しました。その後、大阪では主催団体やイベント名が変更になることもありましたが、現在まで毎年、パレードが開催されています(コロナ禍除く)。名古屋では、2012年10月27日に『第1回虹色どまんなかパレード』が開催され、800人(パレード400人)が参加しました。その後、2017年の第6回まで毎年行われ、2019年からは主催団体が変わり、名称も『名古屋レインボープライド』となり、現在まで継続されています。福岡では、2014年11月16日に、学生が主催となって『福岡レインボーパレード2014』を開催し、それを引き継ぐ形で、翌年から『九州レインボープライド』と名称を変更し、現在まで継続しています。
2000年代半ば以降、大阪、名古屋、福岡など主要都市でパレードが開催されるようになった一方で、単独の主催団体の運営によらず、地元のパレードイベントに参加する方式で実施する都市もありました。この方式は、主催者にとって、少ない負担で、多くの市民に存在をアピールすることができるという大きなメリットがありました。神戸では毎年5月に開催されている神戸まつり「おまつりパレード」に団体として参加するかたちで、2006年に『神戸LGBTIQプライドマーチ』を実施し、その後も数年、継続されました。そのほかにも、福岡の『博多どんたく』(毎年5月)での『クィア・レインボーパレード福岡』(2007〜08年)、沖縄市の『沖縄国際カーニバル』(毎年11月)での『沖縄レインボーパレード』(2012〜13年)、三重県津市の『津まつり』(毎年10月)での『三重レインボーパレード in 津まつり』(2017年〜)などがあります。
2010年代の「LGBTブーム」や、2015年に渋谷区、世田谷区で実施された「同性パートナーシップ証明制度」が全国に広がっていくなかで、2010年代後半から、パレードを開催する都市が一気に増えていき、コロナ禍で一時、中断を余儀なくされたものの、コロナ収束後は、さらに全国各地に広がっていきました。
現在では、札幌、小樽、青森、秋田、盛岡、仙台、山形、福島、新潟、長岡、東京、横浜、川越、金沢、浜松、名古屋、三重、和歌山、那智勝浦、奈良、京都、大阪、神戸、宝塚、明石、岡山、島根、広島、山口、丸亀、徳島、高知、松山、福岡、小倉、佐賀、熊本、宮崎、延岡、那覇、沖縄など、プライドパレード・フェスティバルの開催実績のある都市は、全国で40都市以上にまでなりました。そして、日本全国で開催されているプライドパレード・フェスティバルの主催団体の横のつながりを図るために、「Japan Pride Network(全国プライドネットワーク/略称:JPN)」というネットワーク組織がつくられています。
加盟団体一覧
- ※1 ビル・シラー((Bill Schiller)
ジャーナリスト、ゲイ活動家。1943年、米国イリノイ州シカゴのオーストリア系ドイツ人移民のコミュニティに生まれる。ベトナム反戦運動に関わり、1970年にスウェーデンに亡命。ベトナム戦争終結後、スウェーデンのLGBT運動に参画。同国最大のLGBT団体「RFSL」や「IGA(ILGA)」の活動に約10年間携わる。また、40年間にわたって「スウェーデン・ラジオ」の記者として活躍。ストックホルム在住。 - ※2 「IGA(International Gay Association)」
1978年に設立されたゲイの国際組織。1986年にレズビアンが加わり「ILGA」となり、現在は「ILGA」を「International Lesbian, Gay, Bisexual, Trans and Intersex Association」の略称としている。
https://ilga.org - ※3 南定四郎
1931年、樺太生まれ。1974年にゲイ雑誌『アドン』を創刊、編集長に。1984年、「IGA日本(ILGA日本)」を設立。1994年、日本初のプライドパレードの開催を主導。沖縄県在住。 - ※4 「ILGA日本・札幌ミーティング」
1989年2月に札幌で設立された性的マイノリティの活動団体。1996年6月に地方都市で初めてとなるプライドパレードを実施し、その後も継続して開催。96年11月に「北海道セクシャル・マイノリティ協会 HSA札幌ミーティング」に改称。2000年代後半まで活動を続けた。
- 砂川秀樹監修・編集『パレード』(ポット出版)
- 石田仁編著『躍動するゲイ・ムーブメント』(明石書店)
- NPO法人東京レインボープライド編『PRIDE 30th〜日本のプライドパレード30年〜』(NPO法人東京レインボープライド)
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